寛容性のパラドックス

昨日読んでいた本で、「寛容性のパラドックス」という話を知り、面白かったので紹介します。

「最近は寛容な社会でなくなってきていると思います。もっと寛容さって大事だよね」と常々思っていたところ、読んでいた本にこのことについて書かれていて、「なるほど」と感心しました。

「寛容性のパラドックス」とは、寛容性が持つ矛盾点を指し示す概念です。このパラドックスは、どこまで寛容であるべきか、そして寛容がもたらす限界や問題点を示唆しています。

寛容性のある社会を目指すためには、不寛容な者にも寛容であるべきか、ということです。

「たしかに!」寛容でいたいなら、不寛容な、例えば頑固な人とかにも寛容であるべきだよね。と思いました。そして、哲学者カール・ポパーによれば、「無制限の寛容は、寛容の滅亡をもたらす」と述べています。寛容性のある社会を目指すなら、不寛容なものに対しては寛容であるべきでない、と。

「ほう、これは面白い。寛容さがある人間になりたくとも、不寛容な人間に対しては、不寛容でいるべき。」と思いました。

寛容でいつづけると、不寛容なものが蔓延してしまいます。寛容であるべきでない意見や行動も受け入れることになり、結果的には自由や平和な社会を損なうことがあります。

この本の例でいうと、小山田圭吾さんの事件について取り上げています。彼の過去のいじめについて、時代を越えて引っ張ってきて、SNS等で集団リンチみたくなったことがありました。これについて、寛容性のパラドックス的に言えば、こういう行為(SNSで彼を否定する行為、キャンセルカルチャー)をするべきだ、ということになります。

ところが、実はカール・ポパーの論は少し違って、寛容性を守るためにはある程度の制約が必要であり、不寛容な行為や扇動を行う人々に対しては寛容であるべきではないというものでした。

「なるほど。そういうことなんだ。ああ、良かった」と思いました。

小山田さんの例は微妙ですが、主に、トランプ前大統領みたいな人には寛容性であるべきではないということだそうです。

ただ、この本的には、キャンセルカルチャーについて肯定的に書かれているので、それについては別途書きたいと思います。

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